Room No.1122

ゆるっとデンマーク映画やデンマークについて書いています。たまにオランダの話題も…。

『たちあがる女』:アイスランドと世界のつながり

 『たちあがる女』(原題:Kona fer í stríð)は、2018年に公開されたアイスランド映画アイスランド・フランス・ウクライナ合作)だ。監督は『馬々と人間たち』のベネディクト・エルリングソン監督で、この作品は彼の長編2作目となっている。
 物語の舞台はアイスランドで、そこに住むハットラという女性が主人公だ。彼女は普段合唱団の講師を務める一方で、謎の環境活動家「山女」としても行動するパワフルな人物だ。鉄塔を破壊する過激な姿とアイスランドの大地に茂った苔に顔をうずめるリラックスした表情から彼女の人物像がよく伝わってくる。そして、そんなハットラに長年望んでいた子どもを迎える機会が舞い込む。これによって彼女の環境活動家としての活動は最終局面へと進んでいく。
 本作はエコテロリズムを描いた作品である。しかし、そればかりがテーマとなっているわけではない。本作からはアイスランドと世界とのつながりを感じることもできる。他方で、音楽の演出には独特性が強く表れている。

侵入者として他者、つながりのある他者、画面の中の他者

 9.11以降、北欧映画において「現在の世界における自国の位置付けを意識した映画」が現れてきた。その代表としてあげられるのはスサンネ・ビアの作品である。『ある愛の風景』(2004)ではアフガニスタンとのつながりが描かれ、続く『アフター・ウェディング』(2006)ではインドとの繋がりが描かれた。
 ベネディクト監督の前作『馬々と人間たち』ではアイスランドの住人に焦点があてられていたが、本作『たちあがる女』では、アイスランド内だけの物語ではなく他地域とのつながりが描かれている。この点から本作も「現在の世界における自国の位置付けを意識した映画」といえるだろう。
 本作では様々な他者が描かれている。ここでいう様々な他者とは、その地域の住人ではない者、つまりアイスランドの住人ではない者のことを指す。本作の他者は大きく次の3つに分けられる。それは、「侵入者としての他者」「つながりのある他者」「画面の中の他者」だ。
 「侵入者としての他者」として、ハットラの攻撃対象であるアルミニウム製錬所を経営するグローバル企業リオ・ティントと自転車でアイスランドを巡っている旅行者の青年があげられる。これら「侵入者としての他者」に対して、物語内のアイスランドの住人は拒絶の態度を見せる。リオ・ティントはハットラに攻撃されるし、旅行者の青年は警察に誤認逮捕されてしまう。次に「つながりのある他者」として、ハットラの養子になるウクライナの少女とハットラの双子の姉アウサのヨガの師匠があげられる。この「つながりのある他者」に対しては、積極的に受け入れる態度が描かれる。これらの他者は、物語内の住人たちが自らつながりを求めた他者である。最後に「画面の中の他者」として、ハットラの自宅のテレビに映し出される気候変動による自然災害に見舞われた人々があげられる。この「画面の中の他者」は、気候変動・自然災害という問題意識を広い意味でハットラと共有する人々だ。他方で、この映像が流れる時、ハットラは居間に不在であることから、この映像は観客に向けたものだといえる。この映像は観客がハットラと問題意識を共有するためにカメラにとらえられているのだ。つまり、観客も現実に起きている気候変動・自然災害を通してこの作品と関係しているのだ。
 このように本作はアイスランド住人だけの世界が描かれるのではなく、現在の世界との関係におけるアイスランド住人が描かれている。この関係に対するアイスランド住民の態度は、拒絶だったり、受容だったり、地理的に離れていても問題意識を共有していたりと多様である。世界に対する拒絶と受容の両面をどちらかに寄ることなく、現在の世界におけるアイスランドを描いているところがこの作品の魅力だといえる。しかし、侵入する他者は拒絶するが自らつながりを求める他者へは歩み寄るというある意味はっきりとした態度は、他者の侵入に対する恐れがあることを示唆するものでもあるだろう。

 

音楽の演出

 本作で個性が最も表れているのは音楽の演出だ。本作の音楽は、ブランバンドトリオとウクライナの民族衣装を纏った3人からなる合唱隊が担当している。これらバンドと合唱隊の奏でる音楽は、本作において常に「物語世界の音(ダイジェティック・サウンド )」として表現されている。
 「物語世界の音」とは、映像で描かれている物語世界の中に音源が存在する音のことだ*1。例えば、あるシーンでピアノの音が聞こえるとしたら、そのシーンにピアノを弾いている人が存在する。このような音が「物語世界の音」と呼ばれる。
 本作の音楽は、アイスランドの荒野でも、ハットラの自宅でも、合唱団が練習を行うホールの狭い給湯室でも、バンドか合唱隊もしくはその両者がその空間に存在して奏でられているのだ。映画の冒頭でアイスランドの荒野を歩くハットラとともにバンドが映し出されるシーンは、観客に驚きと面白みを与える。これ以降、物語の終わりまでバントと合唱隊が物語世界に登場し音楽を奏でる。本作で音楽が聞こえてくると彼らがどのように登場するか注目してしまう。
 また、バンドや合唱隊にはハットラを代表とする物語世界の住人が認識されているようである。彼らはハットラの行動を心配そうに見守る。彼らの視線は私たち観客の視線を代弁しているようでもある。映画における観客はスクリーン外の存在だが、本作ではバンドや合唱隊が登場人物に向ける視線を通して、観客が物語世界に向ける視線を作品内に表現している。観客の視線(視覚)を音楽を担う作品要素(聴覚)と融合させるという、異なった感覚の組み合わせも作品により深い味わいを与えている。

 

 

 

 

*1:これに対して「非物語世界の音(ノンダイジェティック・サウンド)」もある。こちらは物語世界に音源が存在しない音のこと。